矢吹町の歴史


人を温かく迎え入れる奥州道中の宿場【江戸期】

 古くから交通の要衝として、多くの人々が行き交っていた矢吹町。
 矢吹が原周辺では、遥か太古の昔から人が暮らしていましたが、近世に至るまで各地に集落が点在するのみでした。

 天正6年頃、奥州道中の宿駅として「矢吹宿」が開設されてから、今日のような町としての集落が形づくられるようになったと言われています。はるばる遠くみちのくへとやってきた旅人を分け隔てることなく寛容に受け入れてきた矢吹町の気質は、今も矢吹の人々に脈々と受け継がれています。


暮らしを楽しむ豊かな心を育んだ「ゆりかご」【明治期~大正期】

「御猟場」時代 (明治期)
「御猟場」時代 (明治期)

 明治18年に宮内庁管轄の御料地となり、明治24年に「岩瀬御猟場」が誕生。東郷平八郎、乃木希典、島村速雄など国内外の名士が多く訪れた岩瀬御猟場は、矢吹町の経済や文化に大きな影響を与えた歴史的にも貴重な場所です。
 当時の日本では、御猟場は一握りの特権階級の狩猟場であり、一般市民の狩猟は禁止されていました。日本の御猟場は、欧州諸国の王室が所有する狩場にならって、特に外国高官との交歓の場として利用されていたため、皇族をはじめ、政府高官、外国政府の要人など、国内外の名士が多く岩瀬御猟場を訪れ、猟を楽しんだといいます。


 やがて時代は明治から大正へと変わり、自由民権運動の高まりとともに岩瀬御猟場は廃止され国営猟区となります。その動きに呼応するかのように、大正10年、合名会社「公楽館」が誕生しました。公楽館は、芝居や活動写真などを興行する芝居小屋として広く一般に親しまれ、町民をはじめ近郷近在から集まった多くの人で賑わいました。
 ごく一握りの特権階級の人々から、やがて広く一般の人へと浸透していった暮らしを楽しむ豊かな心、そしてゆとり。そうした時代の節目の時期にあって、矢吹が原は暮らしを楽しむ人々の豊かな心を育む「ゆりかご」として役割を担っていました。


時代を切り拓く矢吹が原の開墾事業【明治期~昭和期】

 矢吹が原は、平坦な地形にかかわらず隈戸川や釈迦堂川などの河床が低いため水の確保がままならず、農地としてほとんど利用されていませんでした。3000ヘクタールにもおよぶ広大な土地への疎水計画は明治、大正、昭和の3つの時代を経てついに実現された夢のプロジェクト。
 明治時代になり、士族授産として矢吹が原の本格的な開墾が始まりました。明治18年、大和久村の星吉右衛門が天栄村羽鳥地内に鶴沼川を堰止めてダムをつくり、これを矢吹が原に導水して開田する計画を陳情しましたが、実現には至りませんでした。


 ようやく矢吹が原の開墾事業が具体化したのは、昭和9年に矢吹が原御料地の払い下げが決定した後でした。昭和11年に矢吹が原開墾事務所、昭和16年に農林省矢吹原国営開墾事務所が設置され、本格的な国営開墾事業がいよいよスタートしました。しかし、太平洋戦争の勃発、敗戦によって事業はまたも一時中止を余儀なくされます。その後、戦後の食糧不足解決のために再び灌漑用ダム早期築造が要望されるようになったのは昭和21年になってからでした。中止となっていた羽鳥ダム工事も開墾事業と共にようやく着手されました。
 それから10年後の昭和31年、羽鳥ダムが完成し、3000ヘクタールに及ぶ広大な荒れ野は、およそ60年の時を経て、豊かな実りをもたらす沃土へとかわりました。土地を耕し、人を鍛え、幾多の困難を乗り越えてきた矢吹が原の開墾事業は、時代を切り拓く逞しい矢吹の人々の精神をも育んできたと言えるでしょう。